モンテッソーリ教育は多くに通ず

2011/06/06

うちの娘たちが生まれた時に気になった事。それは二つです。

・どんな相手のとこにいつ嫁に行くんだろう
・左にならえの教育は受けさせたくない

嫁に行くのはまだ先なので、おかしな男にひっかからないようにしてあげる為の親のステージ期間がしばらくは続きます。しかし、教育は生まれてすぐ必要になります、本人の能動性・受動性を問わず。
親が教えなくても本人は勝手にあらゆる刺激や感覚からどんどん学んでいきます。怖いくらいに。

ふとこんな言葉を思い出した時がありました。

「その人を見るとその親がわかる、だから親とは社会への責任がある」

これは、子供は人間として多くの事を親から獲得するため、人としての下地はほぼ確実に親から得る。将来社会に出して恥ずかしくない人間にしたいなら、親は責任をもってその職務にあたらなきゃならんという意味なんです。
こんな僕でも、僕の親は僕に段ボールやチラシの裏紙、工具・道具だけを与え続け、想像性を伸ばすために下地を作ってくれたのだろうと思っています。

そこで僕はどんなものを自分の子供たちに提供出来るのか、どんなものを提供すべきなのかと考えました。

●「立派でカワイイなおもちゃか?」

ううむ、お金で買えるモノと完全に設計されつくしているおもちゃを与えすぎるのは子供の想像力の育成を著しく阻害するよなと考えています。なぜなら子供の未完成の想像力は当然ながら未カテゴライズ。それが犬か、それが赤か、それが怖いものか、それがカワイイものか、カテゴライズするのは大人ではなく子供本人が思考し仮説を立てて行ってゆく中で確立してゆくべきものだろうと考えるからです。

では、

●「色々な経験をさせる事か?」

うん、これは是非させたい。
美術館も、博物館も、動物園も、色々な言葉を話す人と会うことも、田植えも、キャンプも、テニスも、料理する事も、海でヤドカリとりも、家具を作っている工場に行くことも、そして「選択」も。
こういう経験に基づいて、自分の考えを洗練させてきていなければ、大人になった時、想像的かつ俯瞰的に何かの突破口を見つけられない。
これからの時代は突きぬけられていない人は様々なシーンで必ず損をする。
いかに有能であっても、、、つくづく、そう感じています。

では、

●「豊かな食事経験をさせることか?」

豊かかどうかはともかくとして、ファクターを知らずしてプロダクトを語るな!というのが料理を問わず全ての事に於いて僕のスタンスなので、お味噌汁やお吸い物を沢山知るよりも、色々な大根の味や、場所によって違う大根の味を教える方が優先だと考えています。

こういった事を考えてきた時モンテッソーリ教育が琴線に触れたのは極めて合理的で必然でした。
現在子供たちは自然まんてん系のちょっと変わった幼稚園へ進んでいるのですが、想像力や判断力、想いやりなどが進化しているなぁと感じ同時に羨ましくも思います。

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モンテッソーリ教育は、グーグルの創業者、アマゾンの創業者、ウィキペディアの創業者、ウィリアム王子などまぁ多くの有名有能な人物も学んでいたりするのですが、これらは全て聡明な親の偉業とも言えます。

モンテッソーリ教育の骨格は「自由」「選択」「支援」であり、ノウハウとして形成しにくい創造的な財産を得られるものでもあります。そしてこれらを達成するには周囲の凄まじい忍耐力や知性、思慮深さが必要ですから、教師に当たる人や環境全体がシステムの成功の可否に大きく影響します。
ちなみにこれって子育てしてれば分かりますが、人間が一番伸びる環境ですよね、こういった条件が達成された状況というのは。
考えれば部下に好かれる上司に必要な能力とかいうものや、起業に必要なもの、といった色々なビジネスノウハウもこれら3要素を軸に主役がどこにいるのかを考えればどう動くべきかが分かってくるのだと思うのです。

教育はとても大切です。
特に小さな頃の教育は人生全てに於いての背骨です。
そう簡単に折れませんし、逆に折る事もできません。
間違ったチョイスをしないよう子供の為に、未来の国の為に、しっかり頭向けてゆきましょう。

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